距離。
距離。の感想です。
しばしばメールが来る。「一緒に食事をしよう」とか「今度、映画を観に行こう」とか。
適当なウソをついて、やんわり、かわしている。
誘いを断るたびに「最近、すごく忙しいんだね」 といった返事が・・・
おお、なんだかんだで異性にモテる高齢ひきこもりN氏の、
恋話ですか?・・・と思いきや、
そのお相手は、バイト先で知り合った、
ガサツな先輩(もちろん男。んで、もちろん高齢ひきこもりN氏は異性愛者。そのケが無く、
ホモ疑惑。を読めば分かるように、
レインボー文化を真っ向から否定するノンケ男性である)
「
友達が一人もいない。」とか「
年賀状が一通しか来ない。」とか言いながら、「同性からも」モテモテである高齢ひきこもりN氏なのである。
「
電車の中で周囲が振り向くほどの大声で話しかけてくる」ようなガサツな先輩・太郎さんに対して、高齢ひきこもりN氏は「
恥ずかしいから一緒に居たくない」と思う一方で、
「
この人はイヤなところが沢山あるけれど、かといって悪い人ではない。修復不可能なほどの衝突はしたくない」
(♪ ここは天国じゃないけどー、かといって地獄でもないー、的な?)
・・・と、
「一緒にいて恥ずかしい人とは距離を置きたい」が
「数少ない友達を失いたくない」との葛藤・板ばさみに苦しまれているのである。
「
この人はイヤなところが沢山あるけれど、かといって悪い人ではない。」
実に哲学的な文章である。イヤなところが沢山あるなら、フツーは嫌って避けるようになるだろうが・・・
それも、これも、「友達ゼロに成りたくない作戦」の一環なのか。そうやって、友達ゼロを回避する事に神経を尖らせて、多大なエネルギーを傾注しつつ、いっぽうで友達ゼロの人を「人間、ああは成りたくないものだ」と見下す・・・何だか救いが無い生き方、永久に人間関係の幸福を味わえないような、不遇な生き方に見えてしまう。
「売り言葉に買い言葉。その応酬でその人との交流がなくなる。そういうケースは何度もあった。」
スゲー。高齢ひきこもりN氏は、引きこもり系にとっての
ウルトラC技「口げんか」が出来る人じゃん。そこいらのコミュ障ひきこもりにはできないじゃん、むしろ
コミュ強?
いやいや、望まない喧嘩に発展してしまう以上、口喧嘩が可能な発言力があっても、やはりコミュニケーション障害とみるべきなのだろう。何も、人前で緊張して上がってドモってしまうようなのがコミュ障とは限らないのだな、と気付かせてくれる。
その高齢ひきこもりN氏が編み出した「適切な人間関係のとり方」とは、「関係が詰まってきたら距離を置く」というものだ。しかし、いざ再接触時に「今さら何なの?」と関係を切られてしまう事も多々あるらしい。
まるで「恋愛・結婚関係にまで発展した濃密な人間関係」で行われるような駆け引きである。それを友人関係にまで転用してしまうというのは、高齢ひきこもりN氏の「天性のモテ男」っぷりを体現していると言えるかもしれない。
私なら・・・
「太郎さんは悪い人じゃないと思う。だからトモダチで居たいのだけど、『私は
電車の中で大声で話しかけられるのは非常に苦手』なので、そういうのは、やめる方向へ努力して頂けませんか? あと、「タバコを吸いたい」ときに、路上喫煙せずに、誰も居ない場所まで行って吸う努力は素晴らしいと思うけど、デパートのトイレ個室には煙感知式の火災報知機があって、あれを作動させると大変な事になるから、別の方法がいいと思いますよ」・・・とでも言うのだろうか。