逆に、タイトル、見出しなど、意味以前に、ビジュアル的に文章から独立している文字列に句点は使われない。使わないほうがよい。句点があると、それがタイトルや見出しではない「何かの文章」であるかのような錯覚を読者に与え、無駄な混乱の渦に巻き込んでしまう恐れがあるからである。そして勿論、大人が執筆した場合「
この人は句点すらまともに使えないのか」と執筆者の知能の低さを疑われてしまうのは言うまでもない。
なら言うな!
ところが、高齢ひきこもりN氏のブログ『高齢ひきこもり』のタイトルには、本来句点を必要としない「タイトル」にまで必ず句点「。」が付される。
そういえば、一部の芸能人の名前にも「
モーニング娘。」など、本来句点が付かない「名前」というものに句点が付される例がある。
これは、姓名判断で縁起の良い画数にするためとか、「モーニング娘。」が非常に売れっ子になったため、それにあやかり、げんを担いで芸名に句点を付ける芸能人が増えたとか、諸説がある。
この芸能事務所の知恵を高齢ひきこもりN氏のブログ『高齢ひきこもり』に当て嵌めてみよう。
まず、仮説
「姓名判断上の画数を良くする為」について考えてみる。
N氏のブログ『高齢ひきこもり』のタイトルは毎回変わる。つまり、文字の画数も毎回変わり一定ではない。そこに毎回一律に句点を一つ打つだけでは「姓名判断上の画数を良くする効果」は得られない。もしそれを狙うなら、句点無しのタイトルや、あるときは「。。。。。」など、毎回句点の数を臨機応変に変える必要がある。
よって、仮説「姓名判断上の画数を良くする為にブログの投稿タイトルに句点を付す」は否定される。
次に、
「名前に句点を付けたら売れる」という迷信について考えてみる。
これには総画数を考慮せざるを得ない制約は生じない。
現に、芸名に句点が含まれる芸能人の名前の総画数は様々である。
芸名に句点が含まれる芸能人一覧(
こんなに居やがる)。
よって、仮説
「名前に句点を付けたら何となく売れっ子・人気者になれそうだから、とりあえずブログの投稿タイトルに句点を付してみる」説は肯定される、であろう。
ならば、ブログの投稿タイトルに毎回句点を打つ手間を考えたら、いっそのこと
初めからペンネームを「二条淳也。」にしたほうが効率的ではないか、と思う人もいるかもしれない。
いやいや、世の中は、効率で全てが割り切れるものではない。引きこもりなど、ましてや高齢ひきこもりの存在など非効率の極みではないか。
しかし、「実際に売れた超人気・紅白歌合戦にもよく出る国民的アイドルグループ」と対極の存在にある高齢ひきこもりが、同じ事をしてみるのは、一般的に恥ずかしい事だし、加齢によりプライドが肥大化している高齢ひきこもりなら尚更絶対に
「やりたくても出来ない」事だろう。
その
代償行為として「タイトル。」という方式が採用されている、と思われる。
「己の高いプライドを満たすために絶対に売れたい・人気者になりたい」と
「しかし、売れたり人気者になるため自分自身をネタにする恥ずかしい努力はしたくない」という二律背反の葛藤が生じるのだ。
この状態を心理学的には「ダブルバインド」「二重拘束」「板ばさみ」「二兎を追う」「人気ブログを作って広告収入を得て、働かなくても食っていける事を夢想しながら
ネオニートを追う」などと表現する。
句点の本来の意味と、発展的な意味。
句点を打てば、文章はバッサリ終わる。
しかも文学的には、文章のみならず、書かれている内容そものを情緒的に完全に終わらせるという発展的な効果も期待できる。例えば
Nは死んだ
Nは死んだ。
句点があるほうが、その物事が完全に完結したと強調できる。
句点を打たないと「誤植」と見做され、読者は「これが活字上のフィクションなのだ」という現実に引き戻され、それまで作家が悶絶しながら執筆してきた苦労が水泡に帰してしまう。
例えば、
「障害者を見下していました。」というタイトルでブログ記事を書いたとしよう。
あえてタイトルに本来不要な句点を付す事で「
私Nはかつて障害者を見下していましたが、今はもう見下していません。見下していたのは、あくまで過去の事です」という意味合いを読者に強調できる。
しかし、そういう風に見えるのはあくまでタイトルのみを凝視した場合のみであって、実際にブログの投稿文章を最後まで読み切ってしまうと
「なんだ。その後も高齢ひきこもりN氏は障害者を見下し続けてるではないか」という事がバレてしまう場合も有る。
この、普通はやらない、タイトルに句点を付す高等テクニックを、
「自分は良い人間である事を演じるために無意識的に習慣的に用いている」のか、
それとも
「私はこれほどまでに醜く卑怯な人間なのですよ」という事を読者に知らしめる為に
意識的に、自虐的に用いているのか、
そのどちらの用途かによって、ブログ『高齢ひきこもり』執筆者N氏の人間性は、天か地か、正反対の方向へ分岐するのである。
ん?「どちらにしろ障害者を見下し続けて居ることに気付かないのだから駄目じゃん?」。
この疑問に対しては、投稿「
「死ね」という言葉。」によれば、街中で子連れの母親と駐車をめぐって口論となり、
子連れの母親から「死ね」と言われたことに触れ、「死ね」が頻繁に飛び交う社会はおかしい、との論調に、私も
至極珍しく 高齢ひきこもりN氏に同意であるし、
投稿「
ひきこもりでも、女性から愛される。」※によれば「無職・無収入・障害者を差別する高齢ひきこもりN氏をふんだんに愛してくれている優すぃ※恋人さん」がいて
「ひきこもりであっても、その「人間的魅力」だけで女性を惹きつけることは出来る」などと、
障害者を見下している高齢ひきこもりN氏が言ってのけてしまうのは、
解せぬ。
※障害者を見下しているから「精神障害」と診断されかねない精神科に掛かりたくない
※しかも障害者を見下し続けている事に気付いていない
※もっとも、「
ねえ! 入籍しようよ!(1と2が有り、これらは例外的に句点が無いレアー・タイトルである)」 を読むと、恋人から
「引きこもりでもいいから結婚したい」と求婚されている幸甚に、
「無職のまま結婚できるか!」と、プライドが年相応かそれ以上に高い高齢ひきこもりN氏は悶絶し、
もし結婚して父親を安心させて父親にポックリ逝かれて仕送りが途絶え、独居ライフを満喫できなくなるぐらいなら、今の「独身・1人暮らしの気楽さ有り・恋人有り・父親からの仕送り有り」の4拍子揃った生活が出来るだけ長く続きますように!と神にも祈らん勢いの高齢ひきこもりN氏・・・。
いやー、
「無職・高齢ひきこもり・性格がアレなのに恋人がいる」とはいえ「
これだけ高齢ひきこもりN氏の精神状態は大変なのだ、神様は意外と公平なバランスで世界を作っていらっしゃるのだ・・・」と
N氏を庇うつもりで、ここまで書いてきたのだけど、
「独身1人暮らしの気楽さ有り・恋人有り・父親からの仕送り有りの、4拍子揃った生活が出来るだけ長く続きますように!」
という「その発想は無かったよ!
よくもまぁソコまで自分に都合の良い世界を理論だてて列挙できるなぁ!私にはそんな能力・知恵は無い!流石、士業資格をお持ちの方は違うなぁ!」と、ネバーランドへの亡命を切望する高齢ひきこもりN氏を庇う気が失せてしまった・・・
とゆーか、この混沌ぶりは絶対素人の手に負えやしない、やはり発達障害などを疑い精神科へ行くべきではないかと思う。
ゲーマー・ぶーにゃんさんが仰るように(
HIKIKOMORI当事者、二条淳也様が発達障害の認定を受けるべきこれだけの理由。)
この混沌っぷりと、
「よくもまぁ、同一人物N氏はこんなにも真逆の事を書けるな・・・」という不可解さは、精神科で「発達障害」等の認定を受け、障害者としてのしかるべきケアと、障害者に即した、効率的で周囲や自身への過剰な負担の掛からない社会復帰の方法を模索するのがよろしいだろうと、
本気で思う。
※
「なんだか、生きているだけで大勢の人を不幸にさせているような気がする」が
「それを申し訳なく思う」とは一言も書いていないので、読者が勝手に「本人は申し訳なく思っている、と解釈して同情してくれる」事まで予測済みで書いているのなら、高齢ひきこもりN氏はかなりの頭のキレる方である。その余りの計算高さに、恐怖を覚えて近寄りがたくなる人々の気持ちも分かる。
なお、この状況に心を痛めている私とは違って、ブログ『高齢ひきこもり』をN氏に書かせている、不登校情報センターの「支援者」松田代表は、
「いいじゃないですか!だから人間は面白いんですよ!支援は面白いんですよ!だから、こうやってブログに書かせるべきなんですよ!」と満面の笑みを浮かべて喜んでいる姿が目に浮かぶ・・・
ああ、M田の鬼畜め。
神様どうか早急に人間の皮を被った別の生き物M田に天罰をお落とし下さい・・・