母の日、父の日。の感想です。
かつて、どことなく攻撃的な「
自殺肯定論」を高説れた高齢ひきこもりN氏が書いたとは思えない、心温まる、誰にでも見せられる投稿だと思います。映画に例えれば「R指定G(無し)」、ゲームソフトに例えれば「全年齢対象(CERO-A)」といった感じです。(いっぽうで過酷な生育環境下で育たれたのに、そのハンディキャップを考慮に入れず、無毒家庭で育った幸運な方々と同レベルの常識人に成ろうとする、血の滲む努力が窺えて痛々しくも感じるが)。
今回の内容は
「働いていない高齢ひきこもりの息子が、親から貰った仕送りで親にプレゼントを贈った場合、親は喜んでくれるだろうか」といったお悩みである。
お悩みの中心が、世間一般の人々が悩む
「何を贈ったら、貰った人は喜んでくれるだろうか」ではない点が、いかにも無職引きこもりらしく、しかも「高齢ひきこもり」であるから、切なさがより一層加速される。
かたや、高齢ひきこもりN氏は、親から仕送りを貰っている反面、ブログタイトル下の説明文「一人暮らしをしながら
自室にひきこもる中年男の日常」という内容に反して、僅かではあるが就労もされていらっしゃる。
※2013年投稿の「
お客さんの前で怒鳴られる。のコメント欄への返信」には
「私は仕送りを止められたので、本日就活してきました。」とあるが、今回の「
母の日、父の日。」を読む限りでは
仕送りは再開されているようである。
(なんか、これもねぇ「俺はお前らと違って士業の資格持ってるから高齢ひきこもりでも就活出来るんだぜ、へっ」な感じがしてね。いっぽうで、今回のように同情を誘う事を書いたりするギャップ・・・だから誰も寄りつかず孤独なんじゃねのか?)
つまり、収入源は「親からの仕送り」と「アルバイト収入」の2系統がある訳で、後者からプレゼント代を拠出してはどうか。
もし「銀行口座が1つしか無いから、両者を区別しようが無い」のなら、金融口座をもう1つ作ればいい。折りしも高齢ひきこもりN氏が「お世話になっている
と思い込まされている 不登校情報センター」(私からすると「不登校情報センターのドメイン内で」のブログの執筆を焚き付けられ、
ブログを書き続ける事によって「不登校情報センターのページ数を増やし」、不登校情報センターサイトの閲覧者数アップに大貢献し
=不登校情報センターのアフィリエイト収入アップに大貢献し
=しかし高齢ひきこもりN氏に不登校情報センターが稼いだアフィリエイト収入
(N氏が一生懸命執筆しているブログ『高齢ひきこもり』に掲載した広告クリックで生じた収益も含まれる)が適切にN氏に分配されているのかは怪しい
=支援を受けているつもりが、ていよく不登校情報センターのサイト作りに無自覚のうちに利用されているように見えてしまうのだが・・・
不登校情報センターの「
ネットで銀行口座開設」ページのアフィリエイト・バナーから銀口座を開設し、不登校情報センターに入ったアフィリエイト報酬からの還元を請求すれば、高齢ひきこもりN氏にちょっぴりお金も入り、一石二鳥ではないか。これを断るほど不登校情報センター理事長氏が、醜いグダグダ辞任劇を演じた第19代都知事のようなドケチであるとは思いたくない・・・2人とも髪型が同じだからってドケチまで似るとは限らない、ハゲ頭が全員ドケチなわけがない、はずだ。
話が変わるが、
(特に成人した子が)「世間的に“祝うべきだ”と祝福を強制される日」に親へプレゼントを贈る行為もまた、親孝行の一種として「世間の常識論に囚われた行動」とも言えるだろう。
『高齢ひきこもり』ブログ投稿「
生の強制。」で、「生きるも、死ぬも本人の自由であり、生を強制する世の中が異常である」と力説し、「世間の常識論」に真っ向から立ち向かった高齢ひきこもりN氏が、「親孝行をしなければならない」という常識論に逆らえないのは、何とも奇妙に映る。
高齢ひきこもりN氏にとっては、世間を形成する数多の人間達よりも、たった2人の両親のほうが恐怖の大魔王然として君臨しており、決して逆らえない、「逆らったら命はない!」と思い込ませるような存在なのかもしれない。
この「親への恐怖」が高齢ひきこもりN氏にとってのキーワードになりそうな予感がするし、むしろ社会・他人への恐怖の原因も意外とそこから来ていたりするのではないだろうか。
『高齢ひきこもり』ブログ投稿「
発言。」において、
「
何かの何周年とか、キリのいい数字になった時に騒ぎたがる世間の連中は馬鹿らしい」と指摘されているのに、「親の誕生から何年目の日とか、キリのいい数字になった日に祝いたがる世間の連中は馬鹿らしい。
生きていれば毎日が尊く、祝福に値しない日など1日たりとて無いのに」※というふうに、高齢ひきこもりN氏が置き換えて考えて、楽に生きれないのは実に不便な事だと思います。
※「
生きていれば毎日が尊く、祝福に値しない日など1日たりとて無い」にピンと来ない方えの補足。
私は恐らく無意識的にロック・バンド「THE BLUE HEARTS」の楽曲「TRAIN-TRAIN」の歌詞から着想を得てその文章を書いたと思われます。
世界中にさだめられた どんな記念日なんかより
あなたが生きている今日は どんなにすばらしいだろう
世界中に建てられてる どんな記念碑なんかより
あなたが生きている今日は どんなに意味があるだろう
※昔、私を頻繁に苛めた「やんちゃな」男子連中がよく「TRAIN-TRAIN」を口ずさんでいたが、奴らは、単にメロディに吊られたり、「ロック聴いてる俺かっこいい!大人の階段登ってる!」と自己陶酔に浸っていただけで、日本語で歌われている歌詞にも関わらず、
歌詞の意味など絶対に理解していなかったに違いない。
パンク・ロックは歌詞も命なのにね。ブルー・ハーツに謝れ!腹を切って詫びるべきである!
できちゃった結婚で「新たな苛めっ子」を世に産み落とす前に・・・ああ、でも、年齢的に既に「避妊の知識もなくSEXして子供作っちゃった事後」である事は確実だなー。
・・・ん、
私は大きな勘違いをしていたぞ。高齢ひきこもりN氏が悩んでいるのは、親の誕生日ではなく、「父の日」「母の日」という、他国・他宗教の風習を商業主義でこじつけた「バレンタインデー」「ホワイトデー」「クリスマス」「ハロウィン」並の消費喚起イベントについてではないか、ああ、なんだかあほらしい!
まぁ、資本主義が「父の日」「母の日」「バレンタインデー」「ホワイトデー」「クリスマス」「ハロウィン」等をやらないと回らない白痴じみた経済システムだとしても、自称・社会主義国の圧制に比べればマシか・・・その代わり、
プレゼントを贈る金が無かったり、プレゼントを贈る相手が居なっかったりする引きこもりは苦しむわけですが・・・。
ところで、世間の親御さん方は、子供の義務感と恐怖感によって贈られるプレゼントを貰って、果たして嬉しいのだろうか?
「人並みの幸福」を追求する余り、子供を追い詰め、むしろ「人並みの幸福」さえ逃し、「人並み外れた地獄」に引き込まれる事もあるだろうに、と思う。
葛藤のある相手(引きこもりの子供 ⇔ 親)に贈るプレゼントとして好適なのは、形の残らない「食い物」でしょうね、しかも瓶詰めとかではなく、紙箱に入った、食い終わったら簡単に捨てれるやつ!
ああ、でも、これを見ている親御さん方、包装紙を額縁に入れて、居間の目につく所に、これ見よがしに飾るとかは、どうかやめて下さいね。
子供を追い詰めるだけですから。
「子供がしてくれた親孝行を最大限に評価したい」という愛でも、そういう形では重すぎます。
しかーし、親から食べ物をプレゼントされた場合、
「ああ、いいトシして、文字通り、親らから食わしてもらっているな」と感じて高齢ひきこもり本人が落ち込む場合も考えられます。
「食べ物を粗末にしてはならない」という倫理観に囚われた場合、食べ物は捨てる事ができない点が仇となります(年々深刻化する貧困国の食糧危機や、日本の「食品ロス」(売れ残りが出ることも織り込み済みで過剰生産されて、実際に賞味期限切れになる大量のコンビニ弁当など)が問題視されているから尚更ですね)。
そういう感じで食べ物が駄目だった場合は、
「形は残ってしまうけど、机の引き出しの奥に仕舞って放置して忘れられるような、なるべく小さな物品をプレゼントする」のも良いでしょう。食べ物と違って、心置きなく捨てる事も出来ますし。
ともかく、親が「世間・人様並みの幸福を手に入れたい」という利己心、世間体に流されているだけの可能性もあります。
世間とか誰かと比べる幸福ではなく、自分オリジナルの幸福をみつけて下さいよ、親御さん方。あと引きこもり当事者の皆様も。